投稿がとっても遅くなってしまい、反省しております・・・(;^^)
去る3月19日は、Vol.2「十二夜」の千秋楽 東京公演Ⅲを、板橋区の安養院で開催致しました。同会場での公演はVol.1に引き続き2回目でしたが、前回とは逆の位置にステージを組み、写真の後ろにあるガラス窓をバックに公演を行いました。ガラス窓には、美術の松本さんが、エアキャップ(梱包材のプチプチ)を使用した美術で装飾し、客席から見えるお庭の景色と、松本さん制作の美術が混ざりあうように作製してくださいました。夕方の開演だった為、上演中に、美術に西日の反射を狙っていたのですが、開演直前に日が沈んでしまいました。残念! 素敵な会場を快く提供してくださり、また柔軟にご対応下さった、安養院のご住職はじめ関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。 現在は、今年度の活動に向けてじっくりと案を練っています。 4月中旬頃の発表を目指しておりましたが、もう暫くお待ちください。 2016年度の公演にご来場賜りましたお客さま、重ね重ね本当に有難うございました。 Vol.1、Vol.2いづれの公演でも、特に今回初めて聴いてくださった方から、「面白かった」とのお声や「今後も応援してる」とのお言葉を頂戴し、本当に嬉しく思うと同時に、今後の活動の原動力にもなりました。 また、ご来場にはなれなかったけれども気にしてくださり応援のメッセージを下さった皆様も本当に有難うございました。次回こそはお目に、そしてお耳に掛かれることを心より楽しみにしております。 “げん”結び実行委員会 佐藤
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――「歌」「詠」の字は、古来「うたふ」「ながむる」と訓じられて来たが、宣長の訓詁によれば、「うたふ」も「ながむる」も、もともと声を長く引くという同義の言葉である。「あしわけ小舟」にあるこの考えは、「石上私淑言」になると、更にくわしくなり、これに「なげく」が加わる。「なげく」も「長息」を意味する「なげき」の活用形であり、「うたう」「ながむる」と元来同義なのである。 「ああ、はれ―あはれ」という生まの感動の声は、この声を「なげく」「ながむる」事によって、歌になる。…… ……たへがたきときは、おぼえずしらず、声をささげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばはりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよく文ありて、其声長くうたふに似たる事ある物なり。これすなはち歌のかたち也。ただの詞とは、必異なる物にして、かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのずから文ある辞が、歌の根本にして、真の歌也…… ……歌とは、先ず何を措いても「かたち」なのだ。或は、「文」とも「姿」とも呼ばれている瞭然たる表現性なのだ。歌は、そういう「物」として誕生したという宣長の考えは、まことにはっきりしているのである。 小林秀雄「本居宣長」(『小林秀雄全作品27 本居宣長(上)』、新潮社、2012年、pp. 258-259) 悲しい事や堪え難い事があったとき、私達は自身の内部に感じられる混乱を整えようとして、思わず知らず長くため息をつきます。そのような、ひとが極めて自然に取る動作から「ほころび出」たものが、言語というものの最初の姿である、と本居宣長は言っています。私達が生きて行く必要上、われ知らず取る動作、態度、体制などが言葉の生れ出る母体であり、そこから「ほころび出」るものが言葉の原始的な形態であるとすれば、それは音楽の原始的な形態でもあるのではないか。言葉と音楽とは、一卵性双生児のようなものではないか。そのような問いを下地として、「語る言葉、歌う言葉、奏でる言葉」の三者の関係性について考えるためにこの作品を書きました。語る言葉=役者の声、歌う言葉=テノール、奏でる言葉=チェロとして、「ああ、はれ―あはれ」という「ほころび出」た声が、次第に歌となり音楽となっていくさまを書きとめること、つまり、言葉から音へのグラデーションで音楽を書くことを試みました。 「ああ」→「ああ、われ」→「あわれ」と、「ほころび出」た声が変容していく過程を描くため、テキストには以下の3つを用いました。 * ――おおいとしきオフィーリアよ、われ詩をつくるすべを知らず。わが恋の悲しみは限りなけれど、われそを詩歌に託するすべもなし。されど、ああ、われひたすらに汝を愛す。おおわがいとしき人よ、そを信じ給え、いざさらば シェイクスピア『ハムレット』第二幕 第二場 より 大山俊一(訳), 旺文社, 1966年, p. 80 * あゝわれは おぼれたるかな 物音は しづみてゆきて 燈火は いよ明るくて あゝわれは おぼれたるかな 中原中也「 (あゝわれは おぼれたるかな) (草稿詩篇(1933年-1936年)/未発表詩篇)」より 『新編 中原中也全集 第二巻 本文篇』, 佐々木幹郎(編), 角川書店, 2001年, p. 356 * 空よ。愛よ。自由よ。ああ、あわれな狂女よ。この夢はなにごと! 火にとけてゆく雪のように、君は、我と我をとかした。 君の大きな幻影が、君の言葉をくびり殺した。 ――怖るべき無限は、君の青い瞳をどんなにおどろかすことか。 アルチュール・ランボオ「オフェリヤ (拾遺 第一部)」より 『イリュミナシオン ランボオ詩集』, 金子光晴(訳), 角川文庫, 1999年, p. 207 * 作曲の際には、3つの引用から太字の部分のみをさまざまに組み合わせて使用しました。3つの引用のすべては、シェイクスピア作品と何らかの関係性があるテキストです。中原中也はランボーの詩を翻訳していて、3つめの「オフェリア」の訳もあるので、シェイクスピアに関連するとみなしました。また「おぼれたる」という言葉から、「十二夜」冒頭の難破事故や恋に溺れるという表現を勝手に連想しました。 もしかしたら、何の情報もなく、この曲を初めて聴いた方は、三者の即興による音楽のように聴こえるかもしれません。しかし、楽譜の画像をご覧いただくとわかる通り、役者の言葉のパートもしっかりと記譜されています。「緊張して」「夢見るように」など、どのような表情で発声するかの指示も、ひとつひとつのフレーズに書き込みました。声とテノールとチェロとの綿密なアンサンブルが要求されていますが、楽譜通りにきっちりと演奏できるようになったあとには、もう一度テキストの言葉に還り、記譜されている内容と適度な距離を保ちながら、その言葉の在るべき自然なイントネーションで発声できるようにすること、そして、三者が係わり合いながら音楽ができあがっていくことを望んでいます。 役者の柴田くんは、vol.1の《間違いの喜劇》を演るまで楽譜を読む経験はほぼなかったようですが、《間違いの喜劇》も朗読パートとチェロとのアンサンブルが成立するようすべて楽譜に表したため、練習しているうちに楽譜を追えるようになっていました。楽譜を読むことが当たり前で、瞬時に音に変換する訓練がされている私たちとは違い、絵のように見て追っているようで「チェロパートの『pizz.』で音色が変わるから、これは重要な目印なんだよね」などと言っていました。先入観のない目で楽譜と対峙したときに、どのように情報を受け取り、理解しようとするのか、そういう話を聞けるのがとても面白いです。今回はさらに難しいアンサンブルになっているので、とても苦労しつつ、頑張ってくれています。 冒頭からフェルマータ付きの休符があります。テノールの市川くんが「休符で始まる曲なんて初めてだ」と言っていました。私自身は必要性があってそうしているので、ごく自然なことだと思っていたのですが、確かに、休符で始まる曲は珍しいのかもしれません。冒頭のフェルマータのあとも、言葉と言葉の間に何度も休符が挟まれますが、これは感情をつくり、体制を整え、まるで「ほころび出」るように「ああ」を発してもらうための時間なのです。 なかなかシュールでヘンテコな曲にできあがりました。自分で変な曲だなあと思う作品ができあがることはそうそう無いので、とても嬉しく思っています。 ぜひ、たくさんの方に聴いていただきたいです! 桑原ゆう 本日8日は久しぶりのリハーサル日でした。
神田の家公演(東京公演Ⅰ・Ⅱ)から一ヶ月弱ぶりです、場所は東京公演Ⅲの会場となる安養院の瑠璃講堂。 やっぱりとっても素敵な響きなんですよね、ここの会場。 バッハを弾くと特に感じるのですが、倍音がフワッと広がって良い音創りが出来る会場です。今回のステージ配置はVol.1とは全く異なりますのでご来場予定のお客様、お楽しみに! 今日のリハーサルには、お忙しい合間を縫って台本制作の大石泰先生と照明の関定己さんも立ち会ってくださいました。リハをじっくり聞きながら新たな演出案や照明案を考えてくださり、関係者の皆様には本当に感謝です。 桑原の新作「かたち、あや、あるいはすがた」も磨きがかかりいよいよラストスパートといったところでしょうか。 本番がとても楽しみです! お時間・ご興味を持ってくださった方は迷わずこちらからご連絡を。 嬉しいご連絡を一同お待ちしております。 “げん”結び実行委員会一同 |